ガールミーツダージリン 1

第一章

宅内にはいると、老いた女中と話しているそのひとが、いの一番に目に入った。「おや」と彼がこちらに気が付き頭を下げる。「四葉(よつは)さん?」

「私をご存知なの?」

私がそう訊ね返すと、彼は二、三度、ぱちくりとまたたき、「まあね」と朗らかに笑った。「それでは、とめさん。僕は行きますよ」と女中に声をかけた彼が軽快な足取りで邸宅を出て行くのを眺めながら、私はとめと呼ばれた彼女に問いかけた。「彼は?」

「昨屋(さくや)さんですよ」

穏やかな声色でそういって、女中は私に頭を下げ、さっさと庭園内に消えていった。どうやら彼女は少し呆(ぼ)けているのだろう、と私は薄っすら考える。

高橋家の邸宅は、わりあい広くて、我が家より手入れが行き届いている。華族とはいえ没落している我が家と比べれば、そりゃあどこでも「手入れが行き届いて」いるだろうけれど、高橋家はそれを差し引きしても、やはり立派といえそうであった。

母が若い頃に着ていた着物を借りて、髪を結いそれなりの身なりをしている私は、いったいこの家の住人には、どういう風に見えているのだろう。奇異の目に晒されていることだけは確かだろうな、と私は太い息をついた。

「四葉あんずです」

名乗って頭を下げた私に、高橋さん――昨屋さんの父親だ――は蓄えた口髭に触りながら、「これはこれは。四葉さんの御令嬢が、軍人風情に頭などおさげなさらずとも」

「そうはいきませんわ。私は此方の家に入る身分なのですから」

「ああ、ぜひともうちの放蕩息子にきかせたいお言葉ですな。倅(せがれ)は野暮用だからと言って出かけてしまいました。家に居ろとは口酸っぱく申したのですが」

「昨屋さんは外に?」

私が目を丸くすると、高橋さんは困ったという風に眉間に皺を寄せている。「そうですよ、いや、本当に情けない倅で……」

「折角四葉さん自ら出向いてくださったのに」

「いえ、良いのです。それならば、私も家に帰りますわ」

そういってすっと立ち上がった私に、高橋さんの後ろから出てきた女性が――きっとこの方が昨屋さんの母だろう、美しくて物腰の柔らかい女だ――「お茶でも飲んでいかれれば宜しいのに」

「いえ、良いのです。それでは、また。高橋さん」

「おいお前、四葉さんを送ってやれ」

高橋さんに頭を下げ、奥方に見送ってもらって邸宅を出、私は息を吐き、些かばかり緊張していたらしい体から力を抜いた。「なあんだ、昨屋さん、いらっしゃらなかったのね」

呟き、再び溜息をつく。ちらりとあの立派な高橋家を振り返り、そこにはもう高橋の奥方の姿はなかったけれど、私は頭を下げて邸から離れた。

高橋昨屋さんは、私の夫となる方だ。

父がこの縁談を持ってきたとき、地に落ちた家の娘であるこの私と結婚するなど、なんて馬鹿げた決断をするひとなのだろうと思うとともに、ひどく安堵もした。

父に話をきけば、四葉と親しい軍人将校の一家である高橋が、私の貰い手を心配していると常々言っていた父をみかねて、うちの次男――昨屋さんのことだ――にどうでしょう、と持ち掛けたらしい。

うちであればきっとあんずさんも満足頂けるでしょう、という高橋の言葉を、豪快に笑っていた父が、それを嫌味とは捉えず気持ちの良い冗談だと思ったのは、きっと言うまでもないだろう。

高橋昨屋さんは、清廉で竹を割ったような性格のひとだと、父が言っていたけれど、さっぱりしているのは良いものの、見合いの日に「野暮用だ」と出掛けていくのは、一体全体、どうなのだろうか。もやもやした気持ちを抱えたままに家へとたどり着いてしまった私は、それでも家では普段通りに振舞わなくてはならないのであった。

四葉家の長女、四葉あんずという名が、私はあまり好きではない。

四葉は、没落した華族の家柄だ。それこそ以前は華やかな暮らしをしていたけれど、いつの間にか四葉は倒れる寸前にまで困窮を極めていた。父が手を出した新しい商売とやらが軌道に乗らなかったのも、その原因の一端なのでは、と母は思っているらしく、それを理由に両親が口論するのを、私は幾度も見てきた。

四葉は「煌びやか」な華族なのだと思い込んでいた、十年程以前の自分の頬を平手で打ってやりたいと思う位には、四葉はずっと以前から貧しかったらしい。六歳の私が、この家は富に溢れているのだと思い込める程度に、父も母も私に贅沢な暮らしをさせてくれていたのだ。

しかし、貧しい家に贅沢な暮らしをさせるだけの余裕なんて、あるはずがなかった。気が付くと四葉は華族だという気位だけの、女中もほとんど寄りつかないような家になっていた。

私は、母に似た猫のような釣り目と白い肌、父に似た栗色の髪をしている。それを耳隠しに結い上げるとき、なんともいえない、西洋人形がこの国の女を真似ているような気分になる。だから、私は自分のこの外見も、あまり好きではなかった。

醜女(しこめ)とまでは言わないが、黒髪の艶やかな女、というやつでは決してないのだ。それに加えて貧しい私を、どうして昨屋さんは娶ろうと思ったのだろう。

いや――昨屋さんに意志など最初から無く、自分の父親に言われてだったのかもしれない。私だってその通りであるのだし、それならば道理もわかる。

母に頼まれて、外に使いに出る。我が家の女中は今日も家に居らず、きっとどこかで茶でも飲んでいるのだろう。風邪を引いてしまいまして、と言っていた事すら忘れて、彼女はここ最近、下らない言い訳すらしようとせず、無断で仕事を放り出している。

だから、普通ならば家に居て稽古事にでも精を出しているはずの娘が、こうして外に使いに出ているのだ。こんな姿を昨屋さんに見られたら、と思うだけで、心が沈んでいくのは仕方がない。

高橋昨屋さんの寫眞(しゃしん)すら見たことがない私は、その風貌がどうであるかを訊く暇もなくあの家に向かったのだ。不安はあったが、それよりも、この縁談は断れるようなものでも、その必要があるものでもないことだけは心得ていた故に、寧ろこちらに阻喪(そそう)がないかを気にしていた。

なのに、高橋昨屋さんは、あの日、野暮用だと言って、私と顔を合わせることなく家を出たらしい。

そういえば、あの家の女中だという女が、「昨屋さんですよ」と誰かのことを言っていたような気がするけれど――あれはあの老女が呆けていて、書生か誰かをそう指したのだろう。高橋昨屋さんは、高橋の例にもれず軍人だという。どんな人だったかあまり覚えてもいないけれど、あの青年は、高橋家の人間にしては線が細いというのか、優男すぎた気がするのだ。

下駄の鼻緒が切れたのを境に、私は足を止めた。「あら、いやだ」と唇から洩れた己の言葉に、鼻緒のことよりも、いまの自分の現状に対して嫌気が差してくる。

「なにもかも、嫌になるわ」

使いだと持たされた荷物を抱えて、小道に座り込む。行きかう人の目が気になったが、鼻緒が切れたのを理由に、このまま誰かが迎えにくるまで屈んでいようかという気になった。不思議と、あの厭らしい、我が家の女中の顔が思い浮かぶ。

私は慌てて首を振って、女中の顔を頭から追い出し、嫌々立ち上がった。鼻緒が切れても、新しい下駄を買う金などないのだ。慣れた仕草で懐から手拭を取り出した自分も、あの女中とおなじで貧しく厭らしい女のような気がした。

下駄を鳴らして男が横を通っていくのが見えて、不思議と私は顔をあげてその人を見た。男はこちらを見、「おや」と聞き覚えのある声で私に声をかける。

「四葉さん」

高橋家の書生だろう、見合いの日に見たあの青年が、こちらに軽く会釈した。

「今日(こんにち)は、ああ、そういえば。貴方のお名前をきいていなかったわ」

「うん? 私の名前ですか」

不思議そうに言葉を返した書生の男は、「ううん」と顎に手を添えて小さく唸ると、「もしや、私が誰か分からずに?」と訊き返した。私は男の言葉の意味が分らず、首を縦に振る。「まだ、貴方からお名前をきいていません。高橋の女中が、貴方を昨屋さんだとは言っていたけれど」

目を丸くしてこちらを凝視したあと、男は大声で笑った。声を引き攣らせてしこたまそうした後に、やっと「それじゃあ、私は高橋昨屋なのでは?」

「昨屋さん? 貴方が?」

「可笑しいですね、とめさんもきちんと私の名を教えていたのに、四葉さんは僕を高橋昨屋じゃないと仰る」

「良く分からないことを言うのね」

頬を膨らませた私に、書生は「ううん、これは重症と見た」とこちらの顔をまじまじ覗き込む。私は思い切り男から顔を背け、「なにが言いたいのです」

「言いたいことはずっと言っているのだけれど――あのね、四葉さん」

男は私に一歩寄って、「高橋昨屋です。よろしく。高橋の次男坊で、此の形(なり)ではありますが、軍人としては少尉を勤めております。以後お見知りおきを、あんずさん」

そう仰々しいような自己紹介を受けて、私は酷く驚いた。高橋昨屋――あの老婆の女中は、正しく彼の名を教えてくれていて、この飄々とした男こそ、我が夫になる高橋昨屋さんその人だったのか。

「昨屋さん? あら、これは、本当にごめんなさい。私はてっきり、書生かなにかなのだと」

「書生? はは、それは良い。我が家に書生は一応いますが、私は彼ほど若くはないですよ。まあ、そう見えているのならば、それは良いことだとでもしておきましょうか」

「何が良いのよ、全然良くなんてないわ。勘違いしていた自分が恥ずかしい……」

耳まで真っ赤に染め上げた私を、昨屋さんは声を上げて笑う。

高橋昨屋その人は、黒髪を撫でつけた、痩せた体躯の優しげな男であった。聞き及んでいた印象とは随分と違うけれども、本人が自身のことを「軍人としては少尉を勤めている」と言っていたのだから、真に高橋の人間であるのだろう。

高橋は、日本軍の上層部をずっと勤めてきている、生粋の軍人将校一族だ。四葉のような、落ちぶれた末端の華族でさえその名は聞き及んでいるし、高橋と私の父は、先述したように親交も深いようであった。

いまになって、よくよくと考えてみれば、この高橋一家が、没落した身分の娘を高橋に嫁がせてやっても良いと笑っていたというのは、前代未聞のとんでもない話なのでは、と私の背に冷や汗が流れ始める。

――いや、それにしても……。

「どうして見合いの日にお逃げになったのです」

これだけはどうしても言っておきたくて、私がそう詰(なじ)ると、昨屋さんは「いえ、その節は。すこし野暮用がありましてね」

「野暮用とは?」

私が詰め寄っても、昨屋さんはどこ吹く風、爽やかな笑みを浮かべるばかりで、全く要領を得ない。「嫌な方」と吐き捨てると、昨屋さんはふふと声を漏らしはしたが、冷たい表情で口の端を歪めた。「これは、存外堪えます」

彼の言葉に、私は怒りで頬を染める。それを見て、昨屋さんは「おや」と口癖のように呟いた。「四葉さん、今の僕の言葉は、本気で――」

「きらい!」

自分でも驚くような甲高い声でそう叫び、私は昨屋さんの胸板を強く叩いた。「あいた」と軽く目を瞑っただけのあちらの反応にも、苛立ってしまうのだから仕方がない。

「これはこれは、可愛らしい怒り方をする」

「揶揄うのもいい加減になさって。私は本気で怒っているのよ。本気で!」

本気で、と二度繰り返した私に目をまたたいて、昨屋さんは「僕の口真似ですか」と微笑んだ。――この人、本当に……!

「それでは、四葉さん。また会いましょう」

颯爽と手を掲げた昨屋さんに、私は背を向け、「もう結構!」と短く叫んで、故意に昨屋さんとは別の方向へと走っていく。自宅のある方角とも、使いの用事からしてみても全く頓珍漢な方向ではあったが、昨屋さんの顔を見るのも、その隣を通るのも嫌であったのだ。

腹を立てながら帰路につき、おんぼろの我が家の門をくぐって、玄関の錠前を下ろしてしまう。

高橋昨屋さんが、あんなにも失礼な男だとは思いもよらなかった、と私は深い息を吐いた。誰に噂を聞いても、皆んな口を揃えて、気立ての良い男だと言っていたのに、それも私に対しての気遣いかなにかであるだけで、真実などではなかったのだろう。

「そう決め付けるのは、早計というものではないのかしら」

「お母様は本人を見ていないからそう言えるのだわ。すぐに人を小馬鹿にするのよ」

私の話を頷きながら聞いていたはずの母が、西洋風の食卓に飲みかけのティカップを置いた。「あんずさん」と母がこちらを見据えるとき、私はいつも、獰猛ななにかに首元を舐(ねぶ)られているような心持ちがするのだ。

「昨屋さんはお忙しい身ですから、きっと大切な御用事があったのでしょう。あんずさんがそれを掘り返して、嫌だ嫌だきらいだといえば、それはあちらも堪えて当然、お怒りにならなかっただけ、穏やかな良い方ではありませんか」

「でも、お母様。あの顔で、あの話し方をきいていると、本音なのか冗談なのかわからないのよ。余裕がありすぎて、なんだかこちらの腹が立ってくるの」

母はふたたび茶を啜り、「あんずさん」と私を呼んだ。「はい」と私も嫌々ながらも返事をする。「貴女は文句を言えるようなお立場なのかしら?」

喉元がぐっと詰まり、それ以上なにも言えなくなる。母のこういうところは嫌いだ。こちらの事情を知り尽くしていて、いつだってこうして私が一番に身動きが取れなくなることを言う。

「あんずさん、お部屋にお戻りになりなさいな。頭が冷えれば、もう少し冷静に考えられるはずですよ」

母の言葉を最後に、私は食卓を出た。ぎいぎい鳴る床板の上を滑るように歩いていた私の横を、珍しく女中が通っていくが、彼女はこちらを見ようともしない。しかし女は私と母の会話を盗み聞きしていたらしく、通り過ぎる私の耳許で小さく呟いたのだった。「あんずさんは、金食い虫であるのに飽き足らず、高橋さんに嫁ぐのも嫌なんですか? この家をお潰しになりたいと?」

信じられない気持ちで女を見ると、女は感情の読めない面でこちらを凝視しており、私は情けなくも、女の心ない言葉で傷つき、家を飛び出したのだった。

金食い虫と、言われているのは知っていた。あの下卑た女中が、我が家の外でそう悪口を言うことなど、幾度も見てきたのだ。だけれど、影で言われるのと、面と向かって言われるのは、こうも受ける傷の深さが違うのだ、と私は今更そんなことを考えていた。

あんなことを言う女、早く解雇して仕舞えばいいのに、それもできないほどに困窮している四葉も、女中なんてものに罵られて逃げてしまった私も……なにもかもが憎らしくって、悔しくって仕方がない。

「金が、あれば良いの?」

悔しさから呟いた自分自身の言葉に頭を抱えると、はらりと結った髪の一房が落ちてきて、光明が見えた気がした。「髪を売れば良いんだわ」

六歳までの以前の自分の暮らしぶりを考えれば、あの女中の言葉も一理あるのだし、まとまった金が手に入れば、もう少し父の事業の手助けにもなるかもしれないのだし……なにもできず、ただ暮らしているだけで金が入り用になる娘なのだから、それくらいの親孝行、してしかるべしでもあるだろう。

私はそれを名案であると思い、泣きはらした目を拭って立ち上がった。折り良くもう数日すれば髪結もくるだろうし、そのときに談判してみよう。

私はそう心に決め、しかしすぐには家に帰る気になれなかったので、しばらく町を歩いて気を落ち着かせることにしたのだった。

数日後、髪結がやってきたのを見計らって、私は髪結の女に「髪を売りたいの」とこっそり話をした。女は驚いたようにこちらを凝視し、「あんずさんの御髪(おぐし)をですか?」と尋ね返してくる。

「でも、あんずさんの御髪は……とても綺麗で立派ではありますが、その」

口の中でもごもごとしている髪結に、「なあに」と言葉を促せば、彼女は頭を下げ、「いま、流行りは黒い髪なのです。言いにくいのですが、その……栗色は、あまり高値では売れないのです」

私は咄嗟に「あら、そうなの」と言ったが、髪の一本すら売れないような役立たずの女なのかと、心底傷ついていたのだった。

髪結が出て行ったあとも、私はひとり、居間に残って畳の目を見詰めていた。金食い虫という女中の言葉に歯向かいたくて、それを誤魔化し、父の為などとまで思い上がった結果が、「私の髪は赤すぎて売れない」だなんて、とんでもなく情けないだけの笑劇である。

「本当に、私って、役立たずなのね」

背中を曲げて足を崩し、茫然と天井を見る。天井には蜘蛛の巣がかかっており、それを払うような女中すらいない四葉家の娘が、結婚できるなんて、本当に夢のような話なのだと、そのとき私ははたと気が付いた。

お母さまの、「文句を言える立場ではない」という言葉が頭をもたげる。確かにそうだ、と思えば、空しくて泣き叫びたくなるのは何故なのか。夫を選びたいなどと、大それたことは端から思ってはいなかったけれど、四葉は華族であっても華族らしくいることができず、その娘も見目が悪いせいで身を売れなくて呆然としているなんて、高橋が知ったらどう思うだろう。

「馬鹿げているわ、なにもかも」

耳隠しに結っていた髪をほどいて手拭を被り、私はそのまま裏手から外に出た。どこぞに行く気持ちもなければ、そもそもいけるような場所すらもないので、そのまま屋敷の裏手に足を止め、夕刻の空に鴉(からす)が飛んでいくのを目で追っていると、屋敷の中から「あんずさんはどこへ?」という男の声と、それに答えているらしい女中の上機嫌な声が聴こえてきた。

もしや、と思い、私はすぐに茂みの中に身を隠したが、予感の通り、男――昨屋さんは、裏手口から出て一、二度周囲を見渡すと、あっけなく私の姿を見つけて「あんずさん」と微笑みかけた。

無視をするつもりではなかったけれど、なんだか、このような、手拭を被って髪を隠し、俯く姿を見られたくなかったばかりに、私は返事をするのも億劫で、無言になってしまった。だが、昨屋さんは手拭を奪うでもなく、屈みこむ私と同じ高さに座って、その下の泣きべそ顔を覗き込んだ。「どうされたのです?」と彼が存外に優しく訊ねるので、私は目を伏せた。

「なんでもないわ。放っておいて」

「先程、髪結とすれ違ったのですが、その髪はどうされたんです?」

屈みこんでこちらを見る昨屋さんが、私の赤い髪を一房摘まむ。「およしになって」とその手を払おうとしたが、昨屋さんはもう片手で私の手を掴んだ。「髪結になにか言われたのでしょうか。いつも綺麗に結ってあったのに、今日はまるで洗い晒しだ」

「なんでもないの。離してください」

「女性が髪を結わないことが、果たして本当になんでもないのですかね……」

昨屋さんが目を細めるのを見て、喉の奥が詰まる。もうどうにでもなれ、と女中に言われたことも、それからなにをしようとしたのかも、髪結に言われたことも――すべてを白状すると、昨屋さんは稍々驚いた顔をしていたが、「それは、よかった」と第一に言った。「よかった?」と私は表情を曇らせる。

「髪を売らずに済んだということでしょう、まったくもって上々ですな。私の嫁は、そんな理由で髪を切ろうなどと思わないようにして頂きたい」

昨屋さんの言葉の意味が分らないせいで目を丸くしていると、昨屋さんは感情の読めない目で笑った。「高橋から金を用立てなさい。貴方は私の妻なのだから」

かあっと、目の前が赤くなる。その言葉をきいた瞬間に、昨屋さんの胸を両手で強く跳ねのけるように押していた。「おや」と微動だにもしない昨屋さんの様子にも腹が立ち、ああやはりこの人は、と私の怒りも、ついにというのか、怒髪天を衝いた。

「いい加減に! 馬鹿にしないで!」

彼の前を立ち去るとき、彼が小さく「あんずさん」と私を呼んだ気がしたが、それも、もうどうだってよいと思う位に、私は腹を立てていたのだった。

手拭を捨てて、長い髪を晒したまま屋敷を飛び出し、誰もいないような畦(あぜ)道のほうへ走る。顔を上げると鴉たちが鳴きながら家に帰っていくのが見えて、無性に寂しくなった。どうしてこんなに苛立つのだろう、と思ってみても、その理由は雲を掴むようで、自分でも全くもって分からないのであった。

「……馬鹿にしないで」

呟き、屈みこむ。足元に小さな蛙が飛び上がり、てらりとしたその体つきを眺めるうち、自分もこんな風な、醜いものなのだろうと思えて仕方がなくなってくるのだ。四葉も高橋も嫌い、と呟いてはみても、こんな広い田圃の畦道では、声すら誰も拾いはしない。「おや、僕も嫌いなのですか」

声に驚いて振り向いたが、その勢いで私は畦道に手をついた。「おやおや」と昨屋さんがなんでもない顔でこちらに手を差し出し、私はその手をなぜか取ってしまう。「ありがとう」と口の中で言えば、昨屋さんが少しだけ微笑んだ。

「四葉さんには、嫌いと言われてばかりだ」

どうやら、昨屋さんは走り去る私を追いかけてきたらしい。汗一つかいていない彼にすこし腹が立ちながらも、そんなことをしゃあしゃあと言う昨屋さんから私は目を逸らし、「だって嫌いですもの」

「そう言わずに。簪など買いに行きませんか?」

きょとんとして「簪?」と繰り返した私に、昨屋さんは頷いて、「いきましょう」と私の手を引いて歩き出す。畦道はぼこぼことして歩きづらく、それでも昨屋さんに手を引かれているのは、嫌いだいやだと何度も言ったのに、なぜか心落ち着く気がした。「どうして簪なの。嫌な人……」

「なに、大したことではないのです。四葉さんが髪を切れないように、と思って」

「大したことよ、それは。どういう意味なのですか」

私が頬を膨らませると、昨屋さんはこちらを見た。夕日に頬色が照らされている。「気障なことを言わせようとしている?」と昨屋さんは初めて楽しそうに目を細めた。

「なにが気障なことなの。最初から気障だったでしょうに」

「気障だったことに気が付いていたのですか」

私はいよいよ眉間に皺を寄せる。「どういう意味よ」

「四葉さんは、本当に可愛らしいという意味ですよ」

私は先ほど手をついたときに逃げてしまった蛙を探すように、昨屋さんの笑顔からわざと視線を逸らしていた。

ふたりで帰ってきた私たちを見て、母は開口一番に「あらあら、仲好し」と笑った。私は繋いでいた昨屋さんの手を振り払い、「ただいま帰りました」と家に入る。

そんな私を目で追ってもちっとも笑わずに、昨屋さんが母に対し挨拶をしているのを横目で見て、私はすぐに自室に戻る。そのあとしばらくして、部屋の襖を無遠慮に昨屋さんが開き、「四葉さん」と私を呼んだ。

「あんずさんとお呼びしても?」

「一度、お呼びになられていたでしょう。好きなように呼んでください」

その言葉に、昨屋さんは目をまたたいて、首を小さく傾げる。「おや、そうだったかな……」

「次に会うときは、高橋ですね」

「気が早いのではなくて」

「そうかな。気は急いているかもしれません」

立ち上がり、襖に近づく。自分の前で足を止めた私を、昨屋さんはただ見下ろしている。「お帰りになられては?」と私が意地悪く言うと、「閉めようとなさっているでしょう」と昨屋さんが襖に手をかけて笑った。

「そうだ、あんずさん。言おうと思っていたことがあるのです」

改まってそう、昨屋さんが言葉を紡ぐ。私はそんな昨屋さんの、灰色がかった目を、唇を一文字に結んで見ていた。

「貴女を選んだのは、僕ですよ。貴女も貴女のお父様も、父が貴女を憐れんだと思っているようですが、貴女と結婚したいと言い出したのは僕自身です。それを忘れないで頂きたい」

昨屋さんが頭を下げて出て行ったあと、私は暫く呆然としていたが、やっと言葉の意味が掴めると、首筋まで真っ赤に染めてその場に座り込んでしまい、なにひとつ、声を出すこともできなかったのだった。

遠くで家に帰ろうとする鴉が鳴いているのが聴こえる。古ぼけて蜘蛛の巣が張り巡らされたような我が家は、美しい夕日に寂しく照らされているのだ。凍えるような身を切る寒さがやっと和らいで、心地よく肌に空気が沁みるような季節に、高橋さんは私にとんでもないことを言い残して、さっさと四葉の屋敷を出て行った。

――次に会うときは、高橋。

「とても癪だけれど、そうかもしれないのよね……」

広々としているけれど、薄汚れている天井や壁をぼうっと見ながら、私は虚ろに呟く。先ほどの言葉が尾を引いて、いまだに頬が熱いことにも嫌気が差す。

それでもやっと、彼の隣に並ぶことは、思ったより悪くないことなのでは、と思えたのは、一体何故だったのだろう。なにもかも分からないことばかりで、私はそのまま室内の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んだのだった。

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